表と裏
コインにも表と裏があるように、人も表と裏がある
。
表の自分は、そこで求められている役割を忠実に演じようとするが、ときたま裏の自分がそれを制しようとする。
どちらが正解なのか?こうしなければならない。って言う場合は、多分表が正解なのかもしれない。
しかし、こうしたいと言う場合は、もしかしたら裏が正解なのかもしれない。
重要な事象はもしかしたら、舞台で起こっているのではない。もっと重要なことは舞台裏で起こって来るのもか知れない。
【解説】
大事な判断、決断をするとき、どちらが正しいのだろうかと考えることがあります。
例えば仕事であれば、社会人である以上決められたルールに則って判断する場合は、ある程度表の自分を演じなければならないと思います。
しかし人生という中で考えれば、裏の自分がどう考えているか?というところも考える必要があるのではと思います。
特に今の世の中、決められたレールや役に立つ資格を則っていけば安心といわれる時代ではありません。
裏の自分が、つまり本当の自分が何を考えているか?それに向き合って考えていくことが今後は重要なことなのかもしれません。
表の自分と裏の自分のギャップを出来る限り少なくしていくこと。これがより良い生き方なのかもしれません。
もっというと世の中のこともです。表で起きている事象がすべてではないこと。むしろ裏で起きていることこそが重要なことではないかとも思うのです。
昨今のビットコイン騒動も、表の熱狂だけがとりだたさせている感じがしてなりません。
こうやって、富めるものはますます財産を増やし、破れたものは、脱落していく。これが今の世の中かもしれません。悲しい限りです。
僕にとってのHERO
どうにもならなくていっそのこと逃げたしたいと思ったとき、僕にはHEROがいた。
HEROが頑張っている姿を見て、明日も何とか立ち上がることができた。
いつかHEROが勇気をくれたように、僕も誰かにとって少しぐらい勇気を与えるような存在であれたら。
僕が今表現をしているのは、そんなことなのかもしれない。
【解説】
こどもの頃、落ち込んだとき、逃げたしたくなったときに思い浮かんだのはテレビに移るイチローだったり、松坂大輔のことでした。
彼らが頑張る姿を目に焼き付けるために、明日も頑張っていこうと思ってきました。
大人になってからは、仕事の壁にぶち当たって本当に悩みました。
そんなとき、職場の先輩や社外で出会った人が声をかけてくれて随分と救われたものです。
僕もそんな存在になりたいと、それから強く思うようになりました。
気にかけてくれることが嬉しかった。嬉しかったことを誰かにもしてあげよう。
存在するだけでありがたいのだと、そんなメッセージを発信していきたいと思うのです。
混迷する世の中で僕が伝えたいことは希望なんじゃないかな。とふと思っています。
自分を信じられる人こそ、他人も信じられる。
全面的に誰かを信用することってほんとにあるだろうか?自分すらも信用しているかどうかも定かでないのに。
他人を信用し過ぎると、思惑に左右されて、自分がどこにいけばいいかわからなくなる。
と思って意固地になり、少し遠ざけていたような気もする。
足元がぐらついていたんだ。だから怖かった。誰かを頼ることが。
ただ自分を信じてあげられなかったんじゃないかな?自分を持っていれば、他人がどうであれ最終的には、自分で判断できたはずだったのに。
今はより自分を知ること、つまり自分の軸を育て、時には他者を頼る心の柔軟性を持ちたいと思う。
【解説】
僕は昔から他人に頼ることをあまりしませんでした。ほとんどの問題なんて答えがあるわけだから自分で調べたらなんとかなるだろう。
しかしながら、わからない分野もたまには、出てきたりしますね。
例をあげるなら保険。当時新入社員だった僕は保険販売員の勧誘に耐えきれず中身をあまり検討しないまま契約していたものでした。
でもあるとき家計の見直しをした際に気付いたのです。「この保証って、ホントに必要?」
このとき気付きました。重要なことは自分で調べないとダメだと。
またあるときは、勧誘を断りきれず、自分の今後の不安も相まって、取り組んでみたものの、すぐに放り出す始末。
だから誰の話も聞きたくない!全員無視だなんて息巻いていたときもあったような…。
でもきちんとした基準さえもっていれば、そんなこと笑って受け流せたのになって、今は思います。
基準。つまり自分の軸とか価値観とか。
ある人がこんなこと言葉を僕にかけてくれました。
「自分の理解度をあげれば、他人の理解度も自然と上がってくるんですよ。」
確かに自分が過去に悩んだことで、その時自分が感じたことをリアルによみといていけば、もし他人が同じ悩みを抱えていたとしたら、それに向き合ってあげられるんじゃかいかなと思うんです。
だから自分を信じてあげられれば、おのずと他人も信じてあげられると僕はそう思います。
そしてわからないことがあれば素直に聞いてみる。そういう関係がより深くなってくると楽しいですよね。
目標にこだわろう。
目標は人生の指示方向機。
目標がなければ、どこに進んでいいかなんて分からない。
別に達成できなくてもいいやなんて、思ってたけど、自分の人生は日々の目標の積み重ねで出来てるんだ。
だからこれからはこだわろう。1日1日をたてた目標を達成できるように。そう納得して1日を終わりたい。
【解説】
社会人になってからの僕は、仕事の計画はたてるけれど、日々の目標まではたてていませんでした。というかもともとそういう日々の目標をたてるなんて考えももっていなかったのです。
これは部活をやっていたときもそうでした。日々割り当てられるメニューをこなすだけだったような気がしています。
目標がその日その日を支配する。
これは横浜高校元監督渡辺元智さんの格言だそうです。
目標がないと、自分が何のために日々を過ごすのかも分からず、何となくモチベーションも上がらない。仕事に忙殺されるとますます日々のタスクをこなすことになりがちです。
日々の目標を達成できるように、どうやって時間を割り振ろうか?目標にこだわろうと強く思うことで、そういう発想が生まれ始めた。
そんな前に進んでいる実感が自分の人生を支えているような気がしています。
何となくモチベーションが保てない。そんなときは何でもいいから目標をたててみる、そして達成する。そんなプロセス楽しんで見てもいいのかもしれません。
成長って何だろう?
乗り越えたい壁がある。
そこを登ったらどんな景色が見えてくるのか。
山を登る人は、多分そんな感情なんだろうか?
成長というところの山は、姿や形がまるで見えない。どの辺まで登れば、それを実感したのか。
登っている最中は、もしかしたら気付かないのかもしれない。
誰かが言っていた。「失敗と書いて成長と読む」
人は学習をする。うまくいかなかったことから学ぶことの方が多いかもしれない。
もしかしたら成長とは、困難の先にあるものなのかもしれない。
だから僕は、成長と書いて挑戦と読む。
【解説】
成長って誰でも持っている願望なんだそうです。ただどういうのが成長というととても定義がしづらいですね。
ただし確実に言えるのは、難しい課題を乗り越えた先にあるものではないのかなと思います。
「失敗と書いて成長と読む」はプロ野球の野村監督(ノムさん)の言葉です。
またボクシングの村田選手は、「人間の成長は、一歩一歩ではなくドカンと成長する」と言っています。
村田諒太が「ドカンと成長」した時。人間のキャリアは一歩一歩じゃない? https://t.co/vSEoYXhBNt #numberweb #ボクシング @numberwebさんから
— お悩み☆リーマン (@wickyday) 2018年1月21日
失敗とは、上手くいかなかった経験。成功とは、たまたま上手くいった経験。
仕事とか、過去に付き合った彼女のこととか、自分のチャレンジしてきたこととか。
ほとんどが上手くはいってないけれど経験したからこそ語れることは、あると思います。
この経験の積み重ねが、成長の中でとても大きな部類をしめているのではないでしょうか?
だから僕は、チャレンジを積み重ねる経験がとても大事な気がしています。
何事もやってみなければ、わかりません。
僕であって、ブログがここまで続く何て思っていなかったから。
自分の強みとは
自分の強みって何だろうか?
野球しかしてこなかった自分にとって野球をとったときに残る強みなんてあるのだろうか?
強みがうまく言語化できない。強みを仕事をしたいと思うのに、何だか分からない。
そんな焦りがずっと心の中にあった。
強みが自分が自然としていることなんだと気付くようになったのは、人に自分の体験を話してみたことだった。
そうしてわかった。自分の強み。
他人には考えられないことでも自分が当たり前にやってしまうところ。
強みというのは、スキルではなくその人自身の、独自性。アイデンティティ。自分軸。
自分のコンパスをしっかりと目的地に向けよう。その方がきっと安心して進めるでしょう?
【解説】
先日とあるイベントに参加してきました。
そこでは、自分のこれまでを振り返り大きな転換点や自分の体験などを赤裸々に語るワークを体験しました。
最終的に参加者の方がどういう人間なんだろうというのを探るのがこのワークの目的だろうとは思います。
参加者の方々の話を聞いていて、それぞれの体験の中からその人なりの独自性が何となく分かってきてとても刺激的でした。
私もフィードバックをされ、逆にフィードバックをし返しましたが、自分では当たり前にやってしまうところでも「他の人にはすごい」と思う点があるのかなと感じました。
私はずっと小学生から高校まで通算11年間も野球をやっていたのですが、ほとんどの期間、レギュラーにもなれず、ベンチを温める日々でした。
それでもやめなかったのは、野球が好きだったから。中学や高校はまわりのレベルも比較的高く、レギュラーになれることは難しかったことも関係していますが、僕はそれよりも野球というスポーツの奥深さに気付き、もっと追求したいと思っていたんです。
当時は「試合に出てヒットを打つ。」僕はレギュラーになることよりもそれを優先して追い求めていた気がします。
たとえ輝かなくても、「自分が好きなことを地道に追い求めていく。」それを本能的に選択していたのかもしれません。
「自分の好きなことを追い求めていく。」そういったことを言語化してもらったことに気付き、もっと自分のことを話すことも重要なんだろうと思いました。
自分の強みって何だろうなと、考えると堂々巡りになってしまいますが、他者に自分の体験などを話してみると案外自分のことがはっきりと見えてくるのかもしれません。
人生を変えるために
いつだって、このくだらない人生を変えたいと強く思っていた。
強くなりたい。強くなって周りを見返したい。そんないっぱしの反骨精神だけは人一倍あったような気がする。
変えるために、色んなことに飛びついた。思えば単なる僕はおいしそうな餌に食らいつく一匹の魚に過ぎなかったのだろう。
出会いによって、人生はよくも悪くも変わる。結局は、そこで自分がぶれずに考えられるかなんだと思う。
これをやるんだという強い羅針盤のようなものが…。
【解説】
20代前半から半ばの頃は、確かに色々なトライをしたような気がします。その中で失ったものもたくさんありました。でも何とかして人生を変えたかったんです。
でも当時の僕は、何がやりたいことなのかがわからなかったんです。
確かに人との出会いは、僕が今まで気付きもしな知かったことを教えてもらったりしました。
本との出会いも重要なことです。本を手に取ったことで、学ぶことの大切さを教えてもらいました。
しかし人に会えば会うほど、本を読めば読むほど一層わからなくなりました。
そんなときでした。知り合いの人に「興味を持ったことをとりあえずやってみたらどうですか?」と言われました。
最初は半信半疑でした。これが将来どんな役に立つのか?僕はそれがばかり考えていたから。やっているうちも不安でした。
思えば、他人ばかりを見て、自分を大事にすることをおろそかにしていたんだと思います。
「他人は他人。自分は自分」これはまさに真理をついていると思います。
自分を理解すること。そうすることで明確にこれという目標ができた。少しずつ不安も解消されつつあります。
もう周りを見返したいなんか思わなくていい。むしろ他人に痛みにそっと寄り添ってあげる自分になりたいんだと強くそう思うのです。