揺るぎない目標を持つことで得られるもの
誰かの背や輪の中にいさえすれば何となく安心だった。
心の中できゅぅと締め付けられる苦しさも同時に感じていた。
早く大人になりたい。自由な翼を持ってどこかに飛んでいきたい。
僕は、今いつの日か夢見ていた大人になっている。明日の保証は決してない。しかし別の安心感をまた抱いている。
自分の目標に真っ直ぐ向かっているという安心感だ。この安心感は、何となくではなく、強く揺るぎないものになっている。
翼はまだ大きくもないけれど。
【解説】
高校や大学では、部活やサークルに所属していました。どこかに所属している状況は、そこにいさえすればとりあえずの安心感を得ることができました。どんなに影が薄かろうとも、所属からはずれれば、ハブられると思っていたんだろうと今では思います。
やはりすごく他人の目を気にして生きていたんだろうと思います。
社会に出たとき、初めてこの先やっていけるのかという不安を抱きました。大人になったら、自分の人生の軌道を自らの行動でつかみとっていかなければならない。そんなことを初めて知りました。
会社員だからと言って、身分を保証されているわけではない。そんな危機感から自分で稼ぐための取り組みを色々とやってみたものです。
しかしながら、どれも長続きせず、向いてないと言い訳ばかりしていました。不安はさらに増幅するばかりです。
色々と考えてみると、今後に役に立つかもしれないという基準で物事を選んでいたような気がします。
色々と経験してみてわかったのは、自分が本当にやりたいと思うこと。その直感を信じて行動してみよう。それが一番納得間があるような気がするのです。
確かに今後に役に立つことをやるのも重要です。しかしそれは一旦すみっこに置いて、やりたいことを思うままにやるという気持ちも同時に重要なんだと思うのです。
むしろそちらの方が自分の人生が前に進んでいる感覚があって、より毎日が充実しているような気がしています。
人生は、納得間のある目標によってある意味支えられているのかもしれません。
感動を体感し、また共有する。
人が一生懸命何かを精一杯表現している姿を見るのが好きだ。
アーティストならば歌うこと、スポーツ選手ならば競技により違えど、走ることおよび身体を遣って何かをすることだろう。
彼らの頑張る姿を通して、われわれもそれを見て、何かを表現せずにはいられないんだろう。
それは、「頑張れー!」とか歓声を通じて。そしてそれを自分自身のエールとして。
そうして得た感動が明日の活力になる。僕もそういう存在になれたら嬉しい。
【解説】
年末は、知り合いと共に、スポーツ観戦に興じていました。しかしいつもと違うのは、ライヴ観戦ということです。いつもは、テレビでひまつぶしにしか見ていませんが、選手が必死に頑張っている姿を見て、普段は出したことのない声量で彼らを応援している自分に気付きました。
彼らの頑張りを自分に言い聞かせているのかもしれません。
僕自身もどういった形でお伝えしようかと考えると、文字を使って表現することかなと思うのです。
「自分のリソースを使って社会貢献をする」ある起業家の方が言っていたことです。
何も難しく考えることなく、まずは自分にできることを精一杯やる。こういったステップからでもよいのかもしれません。
不安を乗り越える
夜湯船に浸かっていると、突如不安に襲われ、自分だけがなぜか不幸に感じてしまうことがある。
なぜだか分からないが最悪のパターンをいつも想像してしまう。
明日ダメになる自分。この世界から消えてなくなる自分。
こんな不安って僕だけなのだろうか?
でも誰だって悩みはある。凡人でも名を残した天才でも。僕だけではないはずなんだろう。
不安は誰にでもある。だからどうにもならないものと受け入れて、真剣に毎日を生きていこうと思える。
その積み重ねの過程で、やがて自分だけのゴールが見つかったら、不安は過ぎ去り、あとは前に進むエネルギーが身体に道溢れていることだろう。
【解説】
仕事があまり満足にいっていない。恋人がいない。お金がない。この先どうなっていくんだろう?そんなことを考えていたとき、どうしようもなく不安に襲われていたことがありました。
しかしあるとき、ある有名なスポーツ選手のインタビューを見ていたら、彼もまたこの先の人生について悩んでいるようでした。
どんなに活躍している選手でも、同じように悩んでいるのを知り、こういう感情は僕だけではないんだと気付きました。
同時にどうしようもないものなのだと受け止めることにしました。
どうにもならないものと受け入れて、自分の行動でそれを帳消しにしようと心に誓ったものです。
しかしながら行動目標を達成したとしても変わらず不安は付きまといます。
どこに向かっているかがわからない。つまりゴールが見えなくなるということです。
しかしながらこのゴールが明確になると、そこに進んでいくエネルギーと安心感が芽生えてくると、僕は思うのです。
現状ゴールが見つかっていないならば、好きなことをとことんやってみることかもしれません。
周りの目を気にせず。思いっきり。
かくいう、私もそこに向けて前進している最中です。登った後の山の景色を楽しみながら。
孤独の貴重さ
独り身が長い夜に、不安で眠れないことがたまにある。
せめて側に誰かがいる安心感にひたりたいと思うことがある。
誰かにすがることも、集団に群れることも、一瞬は、寂しさをまぎらわせてくれる。
人は鏡だ。思わぬ自分を引き出してくれる。
しかし孤独になったとき、改めて思う。
自由だなと。
自分の心の声に耳を澄ませ、研ぎ澄ませる貴重な時間が孤独の中にはある。
忙しさの中にも、意識的にこの時間を作り出せたなら、どれ程良いだろうか。
【解説】
年末大学時代の友達が泊まりで遊びにきていました。大学のときの友達ですからお互いのコトや身の上話など、くだらない話でも割りと盛り上がりました。ただ彼には本音で語り合える貴重な間柄なのでとても安心して話せます。
通算で3泊ぐらい泊まったと思います。
彼が帰った後、数分後に自分との対話が自然と始まっていることに気付きました。
そこで改めて独りでいることの時間って貴重なことなのだと実感しました。
人と会って話す時間も重要ですが、こうして自分との対話をする時間もより重要です。
2、3年前ぐらいの自分
数年前の自分の姿をなんとははしにふと思い返す。
あのときは、不機嫌な顔をして、不満や愚痴を垂れ流していた。
先の見えない不安と行き場のない感情を誰彼構わずにぶちまけていた。
そうでもしなければ、自分の中からあふれでてくる汚れた水を塞き止めることが、できなかったからだと思う。
強大な何かを求めては、何か違う?ということを繰り返しては、深みはまっていった。
あの頃から何が変わったんだろう?
環境は確かに変わった。もう1つ大きな変化は、少しだけ素直になったのかもしれない。
自分を認めて人を頼ってみた。素直に助けを求めるのもそれはそれで人間らしいと思うんだ。
【解説】
当時は、仕事に全くやりがいを感じられず、辞めることばかり考えていました。しかし転職する自信もなく、人にあっては、現状の不満をぶちまけている有り様でした。
何かしなければと思い、スキルや人脈を求めていました。少しだけ知識が増えると、それを持たない他人を少し軽蔑していたりもしました。
でも何も分かっていなかった。自分のことでさえも。
現状の不満ばかりいっていても周りは助けてくれるばかりか遠ざけるでしょう。結局は自分の責任な訳です。
まずは、行動してみること。そして困ったら人に頼ってみることです。全部自分で解決できるほどそんなに優れている訳ではありませんし…
でも誰でも言いわけではありません。僕なら誰に相談するだろうかと考えると悩みを共有できる人でしょうか。
厳しさと優しさ
厳しさと優しさ。
相反するものだけど、どちらもなくてはならない気がする。
やりたいことをのびのびとやれることも大事だけど、ときには、区切りも必要。
昔は反発したけれど、改めて思う。あなたのおかげで道を外れずに何とか全うに生きてこれたんだと。
【解説】
自分の母について書きました。
子どものときは、自分がやりたいと思ったことは自由にやらせてくれたと思います。(父親の教育方針もあると思いますが)
しかしながらただの惰性になってしまうことは、やらせてもらえませんでした。
その代表例はゲームを買ってもらえなかったことです。
打からぼくは友達はゲームを買ってもらえるのになぜ家は買ってもらえないんだ。反発を覚えたのはその頃です。
しかし今なら思います。自分の人生のために役に立つと思うことを全力でやってほしいという母の思いが。
大事なところでは、逆に厳しかったけれど、人生から逃げずに立ち向かえたのも、母のおかげなのかもしれません。
皆さんは普段御世話になっている人からどんなことを学びましたか?