楽観
かつてこんなことを思っていた。
「仕事ができない自分はカスだ。」
「価値のない仕事に意味がない。」
仕事=自己実現の手段だと思っていた。
人に会えば愚痴を言い、会社を辞めたいとこぼす毎日だった。
仕事が生活の中心になって残るものはあるだろうか?悲観にくれる毎日だった。
しかしふと時間がたって、今思う。
「そういうときがあったから今の自分も存在するのではないか。」と
仕事は仕事だ。働くことでしか日々の糧は得られないだろう。
しかしたとえ失敗しても自分の人格まで否定することなどないし、ましてやしてはならないし、そういう言動もするべきでない。
悲観的になっても一つもよいことなど起こらないでないか。であればもっと楽観的に考えてもいいんじゃないか?
もっと楽しいことを考えていこうよ!
今伝えたいこと
この時期になると街に就活生が闊歩し始める。みんな表情が晴れやかだな。
ふとあの頃のことを思い出す。自己PRを作るため、自分のPRポイントをない頭をかきむしりながら作ったっけ?
不安よりも希望だけがむくむくと大きくなっていたあの頃
どちらかと言えば、今は不安で頭をかきむしりたいぐらいに、不安という雲が脳内をおおっていて、乱気流の中立ち止まってあたふたしているみたいに、どこにも行けてない。
20代ってどんなだったろうか?エジソンで言うところの失敗の仕方は学んだのか?
僕が行きたいところってどこだろうか?誰かが示してくれる道。それが正しいのかどうかわからない。
天使はやればできると囁くが悪魔はどうせやってもできないと嘯く、
ええーい、うるさい❗、そしていつか考えること自体やめた。
しかし考えるのをやめたところで解決しているわけでもなかった。
現状のままでいいのだろうか?それは誰もが思うことだろう、秘密の鍵のようなもの。
ドラえもんのようなどこでもドア的なものがあって、鍵を開ければ、違う自分に生まれ変わるみたいなこと、
あるはずがないのだ。
全ては不断の努力によって切り開かれる。うまくいかなかったとき、人や環境のせいにしたがる。僕もそうだったように、
誰かが手招きして、チャンスのおこぼれを預かるのではなく、自分からチャンスを掴もうという態度。
これを癖つける。そういう意識で取り組もうじゃないか❗
モテるって何ですか?
男子なら誰でも幾日は考えるテーマだろう。
「モテるためにはどうすればいいんだろうか?」
おしゃれなお店に連れていけばいいんだろうか?
おしゃれな服を身にまとえばいいんだろうか?
内面をもっと磨けばいいんだろうか?
とにかく思考がぐるぐると回りやがて考えることがすごく面倒になる。
ある時、会社の先輩が僕にこんなことを言う。
「モテるってなんだと思う?」
僕は数秒沈黙したのち、「思いやりですか。」と答える。
「確かにそれも必要だよな。モテる方程式というのがある。それは何だろうか?」
「何ですか?教えてください。」
「モテる方程式=出会いの数×モテ指数」だ。
例えば2人の男子がいたとする。モテ指数が3のAとモテ指数が5のB。
しかしAは出会いの数が7、Bが出会いの数が3だとすると、
A=3×7=21
B=5×3=15
つまりモテ指数が他の人より低くても、 出会いの数が増えることで、その方程式上は上にランクされることになる。
以外と物事はシンプルに作られているものかもしれない。
ある事象に対して、自分なりの定義を見つけていくことこそ人生の面白味がありそうだ。
全くとりとめもない年末の所感
10年前の自分の目標「公務員になること。」
そしてその10年後の自分は民間企業でサラリーマンをやっている。
自分の未来像など想像すらしなかった過去。そしてこのままではという焦燥感に駆り立てられた今現在。
10年間でやったことは、正直ないが失敗の仕方は学んだ気もする。
相手がどうのこうのより自分がどうしたいか。自分が納得して選択したことに後悔をしないようにしようという結論にいたった。
ブロガー兼作家のはあちゅう氏が言っていたが、「将来的に価値のある生き方をしていくことが前向きな生き方」だと、
目先の感情に振り回されることなく、将来的にあるべき姿に向かって行動するのみだろう。
この先にあるべき指針は他人が作ってくれるものではない。自分自身の軸をたよりに強くしなやかに生きていくことが望まれる。
久しぶりの投稿
最近サボりぎみになってしまったがふと気付くことがあったので投稿しようと思う。
いつもよく言われることだが、「君はどうしたいの?」ってこと。
この質問に対して、明確に答えられずにいる。そして同時にそういう意思を持った人間をすごく羨ましく感じる。
昨日も確かそんなことを言われ、うまく言葉にできなかった。
どうしたいの?オレ?
その中で何となく見えてきたものがある。「より良くしたい」という想い。それは自分だけではなくて向き合っているものすべて。
家族、友人、仕事、会社、社会、
その姿勢を持ち続けて取り組もうと心に誓った。
きっかけは些細なこと。そのつながりを点ではなく線にして、良い連鎖を生み出したい。
今いる場所、そして未来につながる場所を自分の意思で決めたと納得できるように。
走ることについての考察
最近たまにランニングをするようになった。野球部だった僕は、人に勝てる競技といえば、持久走しか思いつかないぐらいで、学年でも上位の部類に入っていた。
しかし当の本人は「走ること」について、つらいというものでしかなく。「走らされている」という感覚をずっと持っていた。だからマラソン大会など自ら出てみたいなどとは全く思えなかったのだ。
野球部は、冬の間はシーズンオフとなる。その間の練習といえばもっぱら「走り込み」だ。これがまたつらい。人との競争と相手との競争で楽しいなどと一度も思ったことはなかった。その時代をいわばずっとひきづっていたのだった。
季節はめぐり、友達に誘われ皇居デビューを果たすこととなった。すでに引退してから数年は立ち、運動不足から数100mで息切れをする始末であったが、どういうわけが楽しいと思えた。
仕事のこと、恋愛のこと、様々な話をしながら、僕は走ることの楽しさを初めて感じたのだった。偶然ではあるが思わぬ発見をもたらした。
走ることで人とつながることが出来る。今まで競争するための手段でしかなかった走るということが、「人とつながる」手段に置き換わったとき、とてつもない幸福をもたらした。
競争の世界に身を投じてきたあの時とは違い、つながりの深さを感じながら今を生きている幸福感。
僕にとって「走ること」は今、健康増進と「人とのつながり」をもたらすとても強いツールになっていると感じる。
11月半ば、人生初の自主参加のマラソン大会に出る。そこで自分はどんなことを感じるんだろうか。
欲求の階層にしたがって徐々に成長を追い求める。
人間の欲求とは、マズローの言葉を借りれば、「食欲、睡眠欲」などの生理的欲求があるとされている。
これは、マズローの欲求5段階説の第1段階。生理的欲求をさす。
このマズローの5段階説は、あらゆる欲求を分類させ、段階ごとに示している点に特徴があるように思う。人間の成長の段階に応じた欲求の叶え方のような感じであろうか?
かくいう私は残念ながら、尊厳欲求つまり、「他社から認められたいという欲求」がとても強かったのではないかと考えている。段階を踏んでいくところ、いきなり飛び越えようとしたことから、道をそれかけたことが何度もあった。
確かに「やりたいこと」などそういった欲求を満たすための活動も大いに結構であるが、本業を乱すようなところまではいってはならない、ましてや経済状態の悪化を招くようなことは言語道断といえよう。
人生に近道など存在しない。天才でもない限り。1つづつ段階を踏んでいくことが望ましいだろう。足元がぐらつけば、成功もおぼつかなくなる。まずはしっかりと働いて経済的安定を数年は目指して行こうとここに今決心することにする。
しかしこれは自分の欲求にふたをするのではない。今後のなりたい自分になるための序章段階であり、引き続き欲求とは向き合っていきたい。