万年補欠だった僕が野球から学んだこと自分の強みだと感じたこと。
僕は小学校2年生から高校の3年生まで、受験勉強を挟んだ期間はずっと野球をやっていた。しかし僕の定位置は常にベンチ。レギュラーなどまた夢の夢で、程遠いものだった。
今でも思うのだが、「補欠である自分に価値などない、さっさと辞めてしまえ」と当時を述懐し、そう思うのだが、ここから僕は高校野球引退から今まで自己否定の人生を送ることになった。
しかし野球をやっていなかったら現在の自分がいただろうか?と感じるのも事実。反骨心も礼儀もなく本当にどうしようもない人間になっていたのではないかと思う。
野球の練習は、まさに礼に始まり礼に終わる。グラウンドに入ればまずはコーチや監督に挨拶。練習開始前と終了後にはグラウンドに向かって挨拶。
当たり前に思うかもしれないがこの挨拶という礼儀こそ社会人になった今でも役に立っている。
そしてつらかったのは、ケガをしてしまったことである。僕は肩と肘そして梨状筋障害を患ったことである。肩の腱盤障害始め、肘の靭帯炎症、梨状筋障害になったときは、バットを振れないほどの痛みがあり治ったと思ったらぶり返すつらい時期だった。
この時、始めてカラダのケアの大事さに気づいた。毎日の練習後のインナーマッスルトレーニングと
股割りのストレッチは欠かせないものになった。これは野球選手であれば当たり前のことかもしれないが、怪我がなければ、こうしたこともやらなかったであろう。
その後野球を引退した後も健康に留意した生活を続けている。体調を損なえば、損するのは自分だということをケガをした高校生のあのプレーできない辛さを見にしみているからでもある。
プレイヤーの僕はとにかく打てない、守れない、走れない。と3拍子揃ったプレイヤーであった。守備や走塁の細かな技術は好きになれなかったが、打てもしないのにバットを振り回すようなバッターだった。チームバッティングをしないのだからレギュラーになれるはずもない。
守備も走塁も何度となく同じミスを試合で繰り返しては、怒鳴られていた。しかしいつまでたっても治らなかった。守備と走塁に欠陥のある選手ほどとにかく使いづらい。僕が監督であったら絶対に使いたくないと思う。
しかしバッティングだけは好きになれた。ひたすらバッティングの理想の形をずっと追い求めていた。理想のバッターは当時ロッテで今は楽天イーグルスに所属する今江だった。
今江の上下動がなく、ボールを一直線にバットにぶつけるスイングを理想とした。
バッティングを好きになれたから僕は野球を続けてこられたかもしれない。打てなかったらひたすら何がダメだったかを述懐し、ひたすらティーバッティングに明け暮れていた。
「理想の姿を追い求め、それに向かって改善と実践を繰り返す」
このプロセスの積み重ねは今の仕事にも役立っているし、僕の中でとても好きな作業だと思っている。
色々と振り返りはしたものの、もう一度高校生に戻れたとしたら野球をやるだろうか?答えは多分NOだ。今度は文芸部に入って、制服デートでもして、高校生らしいそんな生活を送ってみたい。しかしやり直しのきかない人生だからこそ、1つ1つの選択なり決断は重いのであるとも感じる。