成り行きで決まる人生って本当に良いのだろうか?
この間中学と高校の同級生と食事をする機会があった。
話の内容は概ね「仕事の愚痴」(笑)
まぁ彼とは本当に腐れ縁で、気兼ねなくそういう話をできる間柄だから別に問題ないような気もしているが、この愚痴を聞くという体質も父親の遺伝でもある気がする。
2人とも地元から東京で1人暮らしを始めてから10年が経つ。一時期地方に転勤していた時期が僕にはあるが、季節の流れの速さをしみじみと感じる。
「なぜ?東京に出てきたか?」
友達は、ずっと東京に出てきたかったようだった。理由はもっと自分の世界を広げたかったから。
明確な意図を持って、東京の大学に進学した。
翻って、この僕は完全に「成り行き」だ。地元の大学に通うつもりだったがたまたまセンター試験の成績が良くて記念に受けた東京の大学受験で見事合格し、破棄にする理由もないため、そのまま進学した。本当に今考えれば偶然が重なった出来事だった。それに至るまでは相当の努力を重ねたのは言うまでもないが、
今の会社も入社試験を受けて受かったから入っただけのことで、明らかな意思があるわけでもない。
確かに社会人として会社に入社し働くまでは、小学校から中学、高校、大学、卒業式という決められた出口があったわけだが、これからはどの辺りで卒業を決めるかを自分で選択し、決断しなくてはならない。
だからタイトルにあるその問いは、今の状況では多分通用しないのだ。
そんな折、田舎の母親から手紙が送られてきた。
便箋3枚にもなる手紙が、
正直文章にまとまりもないのだが、自分を想う感情があふれていた。
母親にとっては、それだけ子育ては自分の生涯をかけた一大事業だったのだろう。
形状の卒業はすでに迎えたものの心の中での卒業は迎えていないような気がする。
最後の締めくくりにはこんな言葉が書かれていた。
「本当にどうしたいかをよく考えなさい」
人生の重大な分かれ道を迎えた時、そこに母親が加わっていることが確かにある。
大学受験のとき、就職活動のとき、付き合っていた彼女と別れたとき、会社生活に行き詰まったとき、母親が正しい道を示してくれたような気がすると、僕はこの数年間を振り返って少しだけ分かるような気がした。
黙って見守る父親とお節介にも介入する母親。付き合い方に正解はない。
何事においても100パーセントうまくいく正解などないのだと、
ただ一つ正解があるならば、
「重要ごとを他人に委ねず、自分のの正しいものさしを持って、選択と決断をしていく」
ものさしは、言い換えれば「判断基準」となる。
母親のその問いに、どう答えるか?
僕はその分かれ道の只中にいる。しかしすでにその腹は決まっている。
成り行きではなく、明確な意思を持って、